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花の皴、鳥の襞/南山は平板化する
合田徹郎
2026 2/25(水)ー3/07(土)
PM 12-7
OPEN 水・木・金・土 曜

合田徹郎
GODA TETSURO
1988 大阪府生まれ
2012 京都精華大学芸術学部造形学科日本画コース卒業
2014 京都市立芸術大学修士課程美術科絵画専攻日本画修了
個展
2024『別様のアルカディア』galerie16/京都
2018『山中に至りては、質は有にして霊に趣く』+1art/大阪
グループ展、アートフェア
2023「景聴園×蘆花浅水荘 舟をつながず-不繋之舟」蘆花浅水荘/滋賀
2021「ARTIST,S FAIR KYOTO 2021」京都文化博物館 別館/京都
2019「原三溪没後80周年記念 三溪園×横浜美術大学 三溪園と日本画の作家たち」三溪園内鶴翔閣/横浜
受賞、入選
2024 京都 日本画新展 2024 出品
2020 京都 日本画新展 2020 出品
2016 損保ジャパン日本興亜美術賞展 FACE 2016 入選
2016 シェル美術賞展 2016 入選
2014 京都市立芸術大学作品展 同窓会賞
left:《scratch(部分)》絹本着色、掛け軸 1060×445mm 2025
right:《early spring》絹本着色、パネル 605×860mm 2025
結廬在人境 廬を結びて人境にあり
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し
問君何能爾 君に問う 何ぞ能く爾るやと
心遠地自偏 心遠ければ地も自ら偏なり
采菊東籬下 菊を采る 東籬の下
悠然見南山 悠然として南山を見る
山気日夕佳 山気 日夕に佳く
飛鳥相与還 飛鳥 相い与に還る
此中有真意 此の中に真意有り
欲弁已忘言 弁ぜんと欲して已に言を忘る
[陶淵明『飲酒』其ノ五 より]
上記は六朝時代の詩人、陶淵明の詩である。 フランスの風土学者であるオギュスタン・ベルクは、この淵明の鷹揚かつ明媚な詩をその主著『風土学序説』の中で、以下のように分析した。
「この詩で特にだいじなのは、風景の美の情緒ではない。風景というテーマは淵明の詩ではまだ重視されていない。」
「現象と出会うためには・・・世界から身を背ける必要があるのである。個人の意識へ向かって身を背けるのではなく、物そのものの方に向かって、そのもっともあらわな単純性において。六朝時代の中国の詩人たちの隠遁と隠退の運動(隠逸)が象徴しているのは、まさにこのことである。」
「日常の言語では語り手の平面と現象について語られたものの平面は、遠近法的な距離によって分離しているが、唐詩の詩人たちが試みたのは、この遠近法的な距離をなくすことだったのだ。」
[オギュスタン・ベルク『風土学序説 第二章 世界』より]
私はいま、目の前にある動植物の皴と、遠くにある山の襞とをそれぞれ見ている。
そして同一の画面上に、一つ一つ描線を刻むように絵を描き起こそうとしている。
しかし、私が手近な植物や花を見るとき、目の前に立ち現れる表皮や皴、或いはその模様の在り方などは、一歩離れて眺めていたときとは全く違う様相で、そのイメージの変化のギャップにいつでも驚かされる。
同様に、遥か遠い山を見るとき、その葉叢の細部まではどうしても目で追い切れないという事実が幾度となく去来し、いつまでも途方に暮れてしまう。
極端に近いものと極端に遠いものとはそれぞれ、どちらもそのままでは把捉し切れないほどの表面の在り様で、とてもじゃないが理解と描く手が追いつかない。
それでも何とか形にしようと、その襞や皴をポツポツと追っていく……
その行為はまるで、あくまで例えばだが、元の時代の画家たちや江戸時代の文人たちが、彼らにとって遥かに遠い古典絵画や手習いの粉本を前に、まずはフラットに、その表層の皴をなぞるところから理解と制作を始めた態度にも似ているのではないかと思えてくる。
そうしてコツコツと皴や襞を描いていくうちに、いままで処理し切れなかった近と遠との情報は、自分なりのものへと、或る種の誤読を交えながら「翻訳」されてゆく。
私は要するに、近と遠、現在と古典とを、一度同じ平面に均(なら)しながら、その表面をなぞるようにして絵を描き始めてみたいのである。
陶淵明は手元の菊から夕に霞む南山にふと眼を遣ったとき、何を思ったのであろうか。 菊と山との度し難い近遠の細部は、彼の詩人にどのような霊感をもたらしたのであろうか。
まあそんなことをポツポツと考えながら絵を描いている。
©️ +1 art